早池峰の開山は古く、平安時代にまで遡ります。由来をひもとくと、大同2年(807年)、大迫の田中兵部成房は額に金の星がある白鹿を追って山頂にたどり着きました。この時、遠野郷の始閣藤蔵も、同様に白鹿を追って来合せます。神霊を感じた2人は、山頂に祠を建て奉ったと伝えられています。その後、里に下りた2人は、それぞれ遠野と大迫からの登り口に神社を建立しました。
田中兵部成房が大迫に建てた神社は、ご祭神に瀬織津姫命を祀り、真中明神と呼ばれました。後に、お宮の周辺が開田され、“田の中”になったことから田中明神(田中神社)と称されるようになっていきます。早池峰山の里宮である田中神社の宮司は、代々、田中兵部成房の子孫にあたる山陰氏がつとめています。
また、現在、内川目の岳集落と大償集落に伝わる2つの神楽(総称「早池峰神楽」)は、田中神社が始まりとする説もあり、大償神楽に伝わる長享2年(1488年)の銘のある巻物「日本神楽之巻」には、「田中明神神主より大付内(償)別当江」と記されています。この文書によって、この頃に田中神社の宮司より大償に神楽が伝えられたのではないかと考えられています。
5月末、岳集落の早池峯神社では、「山開祭」が行われます。第二次世界大戦以前は早朝に行われ、集落の人々や一般登山客も参列し、神事の後で山に登りました。「山そのものがご神体と考えられており、登山者は神聖な気持ちで心身を清めてから登ったものです」。田中神社と早池峯神社の宮司を兼務する山陰幸三氏は、かつての山開祭や登山者の姿を語ります。当時は、12歳になった男の子が初めて早池峰山に登る「初山」という習慣もあり、山開祭の前日から社務所に宿泊するなど大掛かりな祭事の一つでした。
現在、観光客で賑わう山頂での山開きは、昭和45年頃に始まったものです。山頂にある早池峯神社奥宮の前で祝詞を奏上した後に、岳神楽による権現舞が舞われます。
賢治さんが銀河の森と深く関わることになったきっかけは、大正7年(1918年)に行われた稗貫郡の土性調査です。盛岡高等農林学校の研究生だった賢治さんが、調査で実際に歩いたルートをたどりながら、銀河の森に伝わる文化や歴史、風土を学びましょう。作品とのかかわりも紹介しています。
賢治さんが父に宛てた行程予定を記したハガキによると、9月の調査の初日には大迫の中心部から内川目方面へ進んでいます。早池峰信仰の源流である田中神社付近を通り、岳集落へ。早池峰山のふもとに暮らす人々の暮らしを目の当たりにしたのは、この時ではないでしょうか。作品中でも、早池峰山を“シャーマン山”に例えるなど、山岳信仰の霊場である早池峰山の古い歴史と、山と共に暮らす人々の生活文化の影響が感じられます。
賢治さんの調査ルートを見てみよう
※赤いルートがこのページで紹介している場所と対応しています。(大迫中心部~内川目方面)