北は青森県から南は宮城県まで連なる広大な北上山地。岩手県においては、県の面積の3分の2を占めており、北上山地の最高峰が早池峰山です。
早池峰山は、いつ頃、どのように生まれたのでしょうか。山は、大陸の移動に伴う地理的な要因で造られていきます。富士山をはじめとする活火山とは異なり、早池峰山を含む北上山地は、非火山性の地層から成り立ち、その地質は古生代のものとされる4~5億年ほど前に形成されたという説が一般的です。
“どのようにして生まれたのか”。こちらも諸説あり、現在も研究が続けられています。これまでは、標高の高いところが、長い時間をかけて雨などに削られ、残ったところ(残丘)が山になったとする「残丘(モナドノック)」説が長い間主流を占めていました。最近では、北上山地の北部と南部のプレート同士がぶつかった衝撃で、盛り上がってできた山だとする説もあります。これは、早池峰山と薬師岳が近い距離にあっても、地質や植物の分布が全く異なる点から有力な説とされています。地質学者や地質ファンにとっては、研究のテーマが尽きない山と言えそうです。
子どもの頃、鉱物を集めることに熱中した賢治さんは、「石ッコ賢さん」と呼ばれていました。やがて、盛岡高等農林学校に入学し、地質・土壌学を学び、主任教授・関豊太郎博士の教えを受けました。
大正7年(1918年)3月、盛岡高等農林学校を卒業した賢治さんは引き続き研究生として在学。稗貫郡役所が関博士に稗貫郡(旧・花巻市 大迫町 石鳥谷町)の土性調査を依頼したことをきっかけに、賢治さんも銀河の森一帯を含むこの地域の土性調査に携わることになりました。
調査の際に、賢治さんは、父・政次郎さんに行程予定を記したハガキを送っています。ハガキには、岳、早池峰山、七折の滝、折壁峠などの地名が記され、調査の足どりを追うことができます。また、この調査で賢治さんは、早池峰山周辺から、蛇紋岩、はんれい岩、閃緑岩、かんらん岩などを採取しました。石は賢治さんの作品にも数多く登場しますが、なかでも蛇紋岩は、作品への登場回数が10回を越えるほど頻度が高く、賢治さんが関心を寄せていたことがうかがえます。
「もっと知ろう 賢治さんが歩いた銀河の森とたからもの」第三展示室へ
地質調査の際に、岩石の成分を見極めるために使用する偏光顕微鏡は、一瞬でまるで万華鏡のように美しい石の内部世界へと案内してくれます。早池峰山で賢治さんが採取した蛇紋岩は、緑がかった黒い石ですが、薄片を偏光顕微鏡で見ると透明な藍色のモザイク模様を見ることができます。
偏光顕微鏡でのぞく石の内部世界に賢治さんも魅せられ、初めて顕微鏡を見た時には「石の中にも宇宙が見える」とつぶやいたというエピソードも遺されています。
賢治さんが学んだ盛岡高等農林学校の本館は、現在、岩手大学農学部附属農業教育資料館として、一般公開しています。賢治さんが使用したとされる調査用具や採取した岩石などをはじめ、貴重な資料を多数展示しています。
賢治さんが銀河の森と深く関わることになったきっかけは、大正7年(1918年)に行われた稗貫郡の土性調査です。盛岡高等農林学校の研究生だった賢治さんが、調査で実際に歩いたルートをたどりながら、銀河の森に伝わる文化や歴史、風土を学びましょう。作品とのかかわりも紹介しています。
早池峰山一帯を調査の際にくまなく歩き、地質学者として、その特性を充分に知っていた賢治さん。詩「山の晨明に関する童話風の構想」では、早池峰特有の蛇紋岩質を「なめらかでやにっこい緑や茶いろの蛇紋岩」と、表現しています。準平原や残丘(モナドノック)という、地質学の用語を好んで用いるなど、残丘説をもつ早池峰一帯の調査が影響を与えたとも考えられています。
賢治さんの調査ルートを見てみよう
※赤いルートがこのページで紹介している場所と対応しています。(岳~早池峰山一帯)