早池峰山に登ることは、近年まで“お山”を信仰し、お参りすることが目的でした。「登山」ではなく、「お山参詣」、「お山掛け」などと称して男性だけに許されたものだったのです。山のふもとに暮らす農民にとっては、水をもたらし恵みを与えてくれる恵みの山、沿岸の漁民にとっては、漁から戻る際の目印であり、豊漁を祈願する山として、広い範囲で信仰されていた早池峰山。かつて、人々が早池峰山を目指した祈りの道のりをたどってみましょう。
外川目の枡沢にある拝峠は、その名のとおりお参りのための要所のひとつでした。一説では、早池峰という名がつく以前、早池峰山が東根岳と呼ばれていた時代から、遠くからはるかに拝む場所だったとも伝えられています。この峠からは、遠く早池峰山の姿が望めるため、早池峰山へのお参りがかなわなかった人が、ここから早池峰山を拝んでいました。拝峠から外川目の旭の又にある沢に入り、合石の峠を越えると、内川目の飛内峠に出ます。
かつて、内川目にある飛内峠は草地だったため眺めが良く、早池峰山の姿が望めました。今も、この峠には、地元で「鼻かけ地蔵さん」と呼ばれる地蔵菩薩が、早池峰山の方向を向いて立っています。飛内峠を越えると、岳集落です。人々は、肉食を断ち、新しいわらじに履き替えるなどして心身を清めた後に、お山を目指しました。
賢治さんも早池峰山に登っており、大正13年8月17日の登山者名簿には、名前が記されています。この時、祈りを込めて山頂を目指す人々の姿を詠んだ詩「早池峰山巓」を遺しています。
賢治さんが銀河の森と深く関わることになったきっかけは、大正7年(1918年)に行われた稗貫郡の土性調査です。盛岡高等農林学校の研究生だった賢治さんが、調査で実際に歩いたルートをたどりながら、銀河の森に伝わる文化や歴史、風土を学びましょう。作品とのかかわりも紹介しています。
かつて早池峰山を目指す人々は、外川目から内川目へ向かう際に、飛内峠を越えて行きました。賢治さんも、飛内峠付近を調査しています。また、詩「早池峰山巓」では、木綿の白衣をつけて山頂を目指す人々の姿を「たゞいっしんに登ってくる」と表現しており、伝承のみならず、現実に信仰の山としての早池峰の姿をよく知っていたことがわかります。後に、自らも登拝者として、登山者名簿に名を記し、山頂を目指しました。
賢治さんの調査ルートを見てみよう
※赤いルートがこのページで紹介している場所と対応しています。(水尻~飛内峠~岳)