江戸時代末期から明治時代にかけて、賑わいを見せた大迫。その背景には、どんな理由があったのでしょうか。今から400年ほど前のこと、大迫地方を治めることになった南部氏は、城下の盛岡から遠野、さらには沿岸の釜石を結ぶ街道を整備しました。曲がりくねっていた大迫周辺の街道は直線的になり、町は上町、中町、下町に整備されました。旅人が宿泊したり、荷物を運搬するための人や馬を乗り継ぐ宿場町として栄えるようになっていったのです。
また、江戸後期から明治初期にかけて、葉たばこ産業が最盛期を迎え、明治22年にパリで開催された万国博覧会で大迫産の「南部煙草」が入賞したことで、名声は一層の高まりを見せます。町なかには、料亭や旅館が次々に開業し、大変な賑わいぶりでした。大正期に入ると、鉄道の普及などで宿場町としての役割が薄れ、次第に寂しくなっていきますが、華やかな町場の面影はまだいたるところに遺されていました。
大迫町は、民俗芸能の郷でもあります。風習や信仰に根ざし、今もなお、人々の暮らしと寄り添う数々の民俗芸能。そのひとつが神楽です。
大迫町には、現在、5つの神楽が伝承されています。内川目の岳神楽、大償神楽、外川目の旭の又神楽、合石神楽、八木巻神楽。早池峰山を修行の場とした山伏たちによって伝えられたものとされています。岳、大償の両神楽は、総称して早池峰神楽と呼ばれ、平成21年(2009年)にはユネスコの無形文化遺産に登録されました。
さらに、第二次世界大戦前後の記録をたどると、外川目の岩脇神楽、竪沢神楽、亀ヶ森の修理田神楽、切牛神楽、上道神楽などの名を見ることができます。これらの神楽は、現在は休止されていますが、かつての隆盛の様子がうかがえます。 銀河の森の人々にとって、身近で大切な神楽。幼いころから目にし、耳にした舞やお囃子の調子は、ふとした瞬間に口ずさんだり、自然に神楽の手ごと(手の動き)が出てくるほど、馴染んでいたのです。
賢治さんも、大正期の大迫を訪れています。盛岡高等農林学校地質学研究課の研究生だった賢治さんは、稗貫郡の土性調査を行う一員としてやってきました。稗貫郡の農業を盛んにするための基礎となる大切な調査だったため、役場職員や町の名士が参加して、賢治さんやその師・関豊太郎教授らの労をねぎらうための慰労宴が、石川旅館で開かれました。
宴の席を詠んだ詩「雪の宿」には、山の神を舞う役場の職員が登場します。山の神舞は、神楽の中でも最も大切な祈祷の舞です。秋から冬には山を守り、春になると里に降りて農業の神となる山の神。豊作を願う農家、仕事の無事を祈り山で仕事をする人々にとって、大切な神として崇められていました。宴席で一席舞って見せるほどに、神楽、そして山の神は身近なものだったのでしょう。
賢治さんが銀河の森と深く関わることになったきっかけは、大正7年(1918年)に行われた稗貫郡の土性調査です。盛岡高等農林学校の研究生だった賢治さんが、調査で実際に歩いたルートをたどりながら、銀河の森に伝わる文化や歴史、風土を学びましょう。作品とのかかわりも紹介しています。
調査の際に、投宿した大迫の石川旅館では、いくつかの作品が生まれています。詩「雪の宿」もその一つ。舞台は、旅館や料亭が立ち並び、賑やかな産業の町としての大迫。一方、詩に登場する役場職員は、神楽の一節を酔いにまかせて熱演します。近代産業の面影と、古い歴史をもつ民俗芸能を見事に対比させた作品です。神楽を舞う描写が、実際の演目と合致していることから、作品に書き起こせるほどに、神楽への愛着があったものと考えられています。
賢治さんの調査ルートを見てみよう
※赤いルートがこのページで紹介している場所と対応しています。(大迫中心部)