銀河の森と作品についての関連を紹介します。
作品の背景にあるのは、どんな景色なのでしょうか。
賢治さんが愛し、詠いあげた銀河の森の中心、早池峰山。作品から、心象風景をのぞいてみましょう。
早池峰山にかかわりのある多くの詩の中から、代表的ともいえる3作品を紹介します。
早池峰山巓の複製原稿(拡大する)
資料提供 宮沢賢治記念館
賢治さんが大正13年(1924年)8月17日に早池峰山に登ったときの作品です。
早池峰山巓
「北いっぱいの星ぞらに」複製原稿
(拡大する) 資料提供 宮沢賢治記念館
『北いっぱいの星ぞらに』は『早池峰山巓』と同じ日付のある作品。大迫の岳集落から早池峰山の登山口・河原の坊に向かう途中の夜道に詠まれたものと考えられています。
北いっぱいの星ぞらに
「山の晨明に関する童話風の構想」複製原稿(拡大する) 資料提供 宮沢賢治記念館
一年後、農学校教師時代の最後の夏休みに登ったときには、4編の詩を書いています。その中の詩『山の晨明に関する童話風の構想』では早池峰山の情景を詠いあげています。
山の晨明に関する童話風の構想
また、河原の坊には『山の晨明に関する童話風の構想』の詩碑があります。昭和47年(1972年)10月に除幕された全国16番目の賢治詩碑で、碑の文字は当時小学校4年生の児童の書です。詩碑には末尾の6行が刻まれています。
代表的な作品の一つ、童話『風の又三郎』。舞台のモデルとなった場所は、様々な説がありますが、大迫町外川目地区もその一つと考えられています。
かつて栽培されていた葉たばこ・南部葉
資料提供「早池峰と賢治」の展示館
かつて、葉たばこの耕作地として栄えた大迫町外川目地区。栽培されていたのは南部葉という品種でした。このたばこの葉型はとても大きく、乾燥後も深い緑色を保ち、独自の特徴を持っていました。薫り高く、品質が優れていた南部葉は、世界的なブランドでした。
南部葉の品質は明治29年(1896年)に設置された大迫葉煙草専売所によって厳重に管理されていました。『風の又三郎』には、たばこの葉を折った又三郎を「わあい。専売局であ、この葉一枚ずつ数えで帳面さつけでるだ。おら知らないぞ。」とはやす場面が出てきます。
作品の中で、たばこ畑は「たばこの木はもう下のほうの葉をつんであるので、その青い茎が林のようにきれいにならんでいかにもおもしろそうでした。」と表現されています。物語の季節は9月上旬です。岩手では葉たばこの収穫時期は一般的に8月中に最盛期を迎えます。9月上旬の時点で下の方だけが摘み取られ、林のように並んでいる、というのは現実的ではありません。しかし、大迫だけでしか栽培されていなかった南部葉の収穫は9月に入ってから本格的に始まります。したがって、『風の又三郎』のたばこ畑の舞台は、大迫にあった南部葉の畑がモデルになったと考えられるのです。
猫山から採集されたモリブデン鉱石
資料提供「早池峰と賢治」の展示館
猫山は『風の又三郎』に出てくる「上の野原」のモデルの一つと考えられている花崗岩の山です。猫山の山腹では、明治年間にモリブデンという珍しい鉱石を採掘しています。地元民が採集した銀色に光る鉱石を銀鉱石と思い、福島県の半田鉱山(銀山)から技師を招いて採掘坑を開けたのです。しかし、銀鉱石ではないことがわかり、当時はモリブデン鉱の需要もなかったため、採掘を断念しています。この経緯は、『風の又三郎』の主人公・高田三郎の父がモリブデン鉱を掘るためにやってきて、採掘を断念して再び去っていく、というストーリーと大変よく似ています。
また、外川目の火ノ又分教場は、大正5年(1916年)9月に新築され、20坪の教室一つと12.5坪の控所、同坪の教員住宅からなる柾葺屋根の四角形の校舎でした。大迫では、この火ノ又分教場が『風の又三郎』の舞台となった学校として語られています。
賢治さんが生前に出版した唯一の童話集『注文の多い料理店』の冒頭を飾った作品、『どんぐりと山猫』も大迫との関わりがささやかれています。
岳集落の昔の様子
資料提供「早池峰と賢治」の展示館
早池峰山の登山口にある岳集落は、『どんぐりと山猫』の主人公「かねた一郎」が住んでいた場所のモデルだという説もあります。 岳集落は、どんなところなのでしょうか。明治の神仏分離令(1868年)や修験道廃止令(1872年)によって、岳妙泉寺にいた修験が岳集落に定住し、早池峰山への参拝者を泊めたり、道案内をしたりしていました。また、中世から伝えられている山伏神楽の伝承者でもありました。
岳集落から東へ向かった早池峰山・薬師岳の山麓一帯は、まるで『どんぐりと山猫』の作品舞台のような世界が広がっています。
「笛ふきの滝」のモデルとされる笛貫の滝
笛貫の滝は、河原の坊に向かう道の途中を岳川に向かって5分ほど降りた場所にあります。岳川の右岸の真っ白な大理石に大小7つの岩穴があり、そこを通り抜ける水が笛のような音を発することに由来して、この名が付いたと云われています。残念なことに、昭和22・23年(1947・1948年)のカスリン・アイオン台風の大雨によって土砂崩れが起き、岩が崩壊したり、穴がふさがって、当時の面影は失われてしまいましたが、現在でも周辺には多くの岩穴を見ることができます。
賢治さんは、『どんぐりと山猫』の中で、この滝を「笛ふきの滝」と呼び、「笛ふきの滝といふのは、まつ白な岩の崖のなかほどに、小さな穴があいてゐて、そこから水が笛のやうに鳴つて飛び出し、すぐ滝になつて、ごうごう谷におちてゐるのをいふのでした。」と、往時の姿をしのばせる表現をしています。