古くから宿場町として大いに賑わっていた大迫。
賢治さんが訪れた頃は、どんな町だったのでしょうか?
保阪嘉内宛の手紙に登場する「新大橋」の当時の様子
江戸時代末期から明治時代にかけて、大迫は大変賑わいのある町でした。盛岡と遠野・釜石を結ぶ宿場町として栄え、また、製糸工場やたばこ産業、市日などで賑わっていた大迫町には商人や旅人が数多く訪れていました。
賢治さんが大迫にやって来た大正年間は軽便鉄道の開通などにより物資や人の流れが変わり、次第に大迫の町が寂しくなっていく頃でした。しかし、基幹産業であった南部葉は、内川目・外川目村を中心に盛んに栽培されており、賢治さんが書いた作品や手紙にもたばこ畑のことが数多く登場しています。
大正7年(1918年)に土性調査で大迫を訪れた賢治さんは、その年の5月19日に石川旅館に宿泊し、午後から夕方にかけて父・政次郎と親友・保阪嘉内宛にハガキや手紙を書いています。特に、保阪に宛てた手紙の追伸に書かれた文章は、当時の大迫町の情景と生涯独身であった賢治さんの恋愛観を伺い知ることができ、大変興味深いものです。