賢治さんが教師として関心を抱いた新しい教育方法とは?
親交があったとされる菅原隆太郎先生の実績からその姿と二人の交流を紹介します。
資料提供「早池峰と賢治」の展示館
大正8年(1919年)から大迫小学校長を務めた菅原隆太郎先生(1879〜1963年)は、アメリカで始まったダルトン・プランという教育方法を大迫小学校で実践したことで知られています。ダルトン・プランは、教科ごとに実験室を設け、生徒の興味と能力に応じて学習を進める個別学習が特長で、生徒の自主性を尊重する当時最先端の教育方法でした。
菅原先生の大正12年(1923年)2月20日の日記には、「関博士に同行された宮沢さんが見えた。私のしたってゐる方だ。是非私の授業を参観したいといはれた。」と記されています。当時、農学校の教師だった賢治さんが、菅原先生の授業に関心を抱いていたことがわかります。
菅原先生の蔵書からは『春と修羅』と『注文の多い料理店』の初版本と、賢治さんの遺言書ともいえる『国訳妙法蓮華経』が発見されていることから、生前に深い付き合いがあったのではないかと考えられています。