ここでは、ホームページの内容をより深く理解するために、知っておきたい言葉やその背景にある事柄を解説します。
賢治さんが訪れていた頃のこの一帯は、大迫町、亀ヶ森村、内川目村、外川目村の4つの町村でした。昭和30年(1955年)にこれら4町村が合併し、稗貫郡大迫町になりました。平成18年(2006年)の合併によって、現在は花巻市大迫町となっています。人口は、平成18年の時点で6500人ほど。
民俗芸能の郷でもある花巻市大迫町。内川目に伝わる早池峰神楽(岳神楽、大償神楽の総称)は、平成21年(2009年)にユネスコの世界無形遺産に登録されています。神楽の他にも、さんさ踊、鹿踊、太神楽、念仏踊などが伝わっています。
早池峰山の開山は、大同2年(807年)の白鹿伝説が始まりとされています。開山から現在までの歴史をたどってみましょう。
1200年代、諸国を巡っていた僧・快賢は、早池峰山に登り、神仏の気配を感じて山のふもとにお堂を建てました。このお堂は、人々に河原の坊と呼ばれるようになりました。伝説によると、河原の坊は、白髭水と呼ばれる洪水(宝治元年/1247年)によって流されてしまいます。
洪水から50年ほどの時を経て、越後の円性阿闍梨という僧が早池峰山をお参りしたところ、夢の中に権現さまが現れ、「昔のようにお堂を造り、経を読み、教えを説くように」と告げました。そこで円性阿闍梨は、河原の坊を再び建立して、現在地の岳に新山宮を建て、十一面観音においでいただくように祈り願ってお迎えし、早池峰大権現として祀りました。さらにお堂や山門などを整備して、妙泉寺と名付けます。その後、1500年代に起きた2度の火事により、お堂や記録が失われるなど妙泉寺の力は弱まっていきました。
江戸時代に入り、大迫一帯が南部氏の領地になると、早池峰山を盛岡城を守る東の鎮山とし、西の鎮山・岩手山、北の鎮山・姫神山とともに南部三山と呼ばれました。このことで、早池峰大権現を祀る妙泉寺も南部氏のもとで復興されていきます。歴代の藩主によって、手厚い保護を受けてきた妙泉寺ですが、明治維新の神仏分離令によって廃寺となり、お寺の一部であった新山宮が早池峯神社として残りました。
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「神楽とわたしたちのくらし」 神楽をもっと知ろう!
賢治さん(宮沢賢治)は、岩手県花巻市に生まれました。詩人・童話作家として知られますが、教育や科学の面でも多彩な才能を発揮しました。
早池峰山を愛した賢治さん。大迫には土性調査で訪れ、山、平地、耕作地などをくまなく歩いてまわりました。この時の経験からインスピレーションを得たとされる作品もあります。
遺言で国訳妙法蓮華経の配布を願い、病床で書きためた手帳には曼荼羅が記されるなど、賢治さんは信仰の人でもありました。
賢治さんと仏教の出会いは、10歳の頃に地元・花巻の大沢温泉で父が主催した仏教の講習会と云われています。信仰心の篤い仏教徒であった賢治さんの父・政次郎さんをはじめ、仏教を信心する環境は、生まれながらに整っていました。
盛岡中学に進学した賢治さんは、盛岡市の願教寺で開かれた仏教講習会に参加します。以来、毎年参加して、住職の法話に聞き入ったそうです。盛岡中学を卒業後、病気や進路をめぐる父との対立などが原因で賢治さんの心は乱れました。同じ頃、願教寺住職の島地大等が編集にあたった「漢和対照妙法蓮華経」と出合い、強い衝撃を受けます。このことが、信仰の人・賢治さんを形成するきっかけとなったと云われています。そののち、生涯を法華経の精神をもって生きた賢治さん。仏教の教えは、作品にも大きな影響を与えました。