ここでは、賢治さんの生涯や作品をより深く理解するために、知っておきたい用語の解説をしています。
賢治さんの父。家業の質・古着商を継ぎ、繁盛させました。花巻仏教会を組織するなど信仰深く、賢治さんの没後は、浄土真宗から日蓮宗に改宗しています。
賢治さんの母。花巻の実業家の長女として育ちました。賢治さんの最期を看取りました。
賢治さんの弟。賢治さんの没後、遺された膨大な原稿や資料を戦禍から守り、「宮澤賢治全集」の編さんに尽力しました。
賢治さんの妹。学業優秀だったトシは、大正4年(1915年)に、日本女子大学に入学。病気により、最終試験は受けられませんでしたが、成績優秀により卒業を認められます。後に母校の花巻高等女学校の教師となりますが、病気は完治せず、大正11年(1922年)に24歳の若さでこの世を去ります。賢治さんは妹の死を悼み「永訣の朝」などの詩群誕生につながっていきます。
盛岡高等農林学校の同級生で賢治さんの親友。山梨県出身。賢治さんと保阪嘉内に同級生2人を加えた4人で同人誌「アザリア」を刊行しています。後に宗教に対する意見の違いから決別しますが、賢治さんが保阪嘉内に宛てた手紙からは、二人の篤い友情を見てとることができます。
賢治さんの恩師。明治38年に盛岡高等農林学校に着任。土壌学者として、賢治さんを指導します。日本火山灰土壌の改良に尽力し、童話「グスコーブドリの伝記」に登場するクーボー大博士のモデルになったという説もあります。
現岩手県立盛岡第一高等学校の前身。賢治さんが入寮した「自彊寮」は、現在も男子生徒用の寄宿舎として使用されています。
明治35年(1902年)に設立された旧制専門学校。農業の技術者や教員の育成を目的とした学校です。現在は、岩手大学農学部となっています。盛岡高等農林学校の校舎は、岩手大学農学部附属農業教育資料館として一般公開されています。
賢治さんは、関豊太郎博士の指導を受け、「盛岡付近地質調査報告」をまとめると共に、得業論文「腐植質中ノ無機成分ノ植物二対スル価値」を遺しました。
標高2038m。岩手県で最も高い山です。賢治さんも、盛岡高等農林学校時代に登り、岩手山やその周辺を舞台にした童話も書いています。
盛岡高等農林学校を卒業後、研究生として関博士に協力し「岩手県稗貫郡地質及土性調査報告書」の作成に参加しました。数回にわたる土性調査は、賢治さんの故郷である稗貫郡の地質や地理環境を良く知る機会となりました。このことが、作品に影響を与え、また、農業指導の実践などでも役だっていきます。
昭和4年(1929年)、療養生活を送っていた賢治さんのもとを東北砕石工場の鈴木東蔵が訪ねてきます。病気の症状が改善してきた賢治さんは、翌年から東山町(現岩手県一関市)にある東北砕石工場で技師として働くことになりました。
昭和元年(1926年)、教師として働いていた花巻農学校を退職した賢治さん。稲作の指導を行なったり、農家の青年に農民芸術論を講義するために羅須地人協会を設立しました。