賢治さんが銀河の森と大きくかかわることになったきっかけ「稗貫郡地質及土性調査」について見ていきましょう。
高等農林時代の賢治さん
子どものころから鉱物採集などが好きで、「石っコ賢さん」と呼ばれていた賢治さんは、盛岡高等農林学校に首席で入学。地質学・土壌学を学び、主任教授・関豊太郎博士の教えを受けました。
大正7年(1918年)3月、盛岡高等農林学校を卒業した賢治さんは引き続き研究生として在学。稗貫郡役所が関博士に稗貫郡の土性調査を依頼したことをきっかけに、賢治さんも「稗貫郡地質及土性調査」に携わることになりました。
賢治さんが参加した土性調査の報告書
資料提供 宮沢賢治記念館
賢治さんは、大正7年(1918年)9月下旬、調査のため大迫町を訪れ石川旅館に投宿した際、父・政次郎宛に内川目村内の土性調査の行程予定をハガキに書いています。
二十二日。大迫—立石—鍋屋敷—岳。
二十三日。岳—早池峰山—七折滝—岳。
二十四日。岳—天王—覚久廻—狼久保。
二十五日。狼久保。久出内。名目入。長野峠、折壁峠—折壁。
二十六日。折壁覚久廻—小呂別—黒沢—大迫。
土性調査で使用されていた用具
資料提供 宮沢賢治記念館
折壁地区は大迫町の北西端にあたり、西の折壁峠を越えると紫波方面、北の五右衛門峠を越えると盛岡方面へ抜けることができます。紫波との境には権現山がそびえており、賢治がこの周辺を鉱石ハンマーや検土杖を持って土性調査をしていると、あやしいと思った男の子が腕を組んで賢治をにらんでいる…。そんな様子を詩『霧降る萱の細みちに』で詠んでいます。
霧降る萱の細みちに
当時の石川旅館の様子
資料提供「早池峰と賢治」の展示館
賢治さんは、石川旅館から、父・政次郎や友人の保坂嘉内宛に多くのハガキや手紙を出しており、「土性調査慰労宴」「雪の宿」など、旅館での宴席を題材とした詩も書いています。「八番」は賢治さんがいつも泊まった部屋で、石川旅館では最も立派な部屋でした。
土性調査慰労宴