賢治さん―。
詩人、童話作家であり、学者でもあった宮沢賢治は、どんな生涯を過ごしたのでしょうか。
ここでは、賢治さんの生涯での主な出来事や作品などを年譜でたどります。
当時の銀河の森の様子も併せてご覧ください。
年月日【年齢】 | 出来事 |
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明治29年(1896)8月27日 | 父政次郎、母イチの長男として、稗貫郡里川口村川口町(現 花巻市豊沢町)に生まれる |
明治31年(1898)11月5日【2歳】 | 妹トシ生まれる |
明治35年(1902)【6歳】 | 里川口村にあった稗貫郡役所が花巻町城内に新築移転 |
明治35年(1902)9月 | 赤痢を病み、隔離病舎に入る |
明治37年(1904)4月1日【8歳】 | 弟清六生まれる |
明治42年(1909)4月【13歳】 | 盛岡中学校に入学(大正3年3月卒業) この頃、鉱物採集に熱中し、「石ッコ賢治」と呼ばれる |
明治43年(1910)6月【14歳】 | 岩手山登山 |
明治44年(1911)【15歳】 | 短歌の創作を開始する |
大正4年(1915)4月【19歳】 | 盛岡高等農林学校へ入学 |
大正6年(1917)【21歳】 | 保阪嘉内らとともに同人誌「アザリア」を創刊 |
大正7年(1918)3月【22歳】 | 盛岡高等農林学校卒業 |
大正7年(1918)4月 | 盛岡高等農林学校の研究生となる。稗貫郡役所郡長が盛岡高等農林学校の関豊太郎博士に稗貫郡土性調査を依頼。当時研究生の賢治も従事することになる |
大正7年(1918)5月19日 | 稗貫郡土性調査のため大迫町の石川旅館に泊まる 「本日は葛の渡しを経…」宮沢政次郎宛ハガキ 「この町には私の母が私の嫁にと…」保阪嘉内宛手紙 |
大正7年(1918)6月末 | 肋膜炎のため静養 |
大正7年(1918)7月下旬〜8月上旬 | 小泉多三郎助教授と豊沢川、葛丸川、岳川、稗貫川を踏査 |
大正7年(1918)8月 | 処女作の童話「蜘蛛となめくぢと狸」「双子の星」を家族の前で朗読 |
大正7年(1918)9月21日〜26日 | 土性調査のため石川旅館へ泊まる 「拝啓今夕無事表記に投宿仕候」宮沢政次郎宛ハガキ 短歌「折壁」を創作 |
大正7年(1918)9月27日 | 土性調査の完了を保阪嘉内に手紙で報告 |
大正7年(1918)11月15日 | 土性調査打ち合わせのため関博士と大迫で会う 文語詩「雪の宿」の宴が催されたか |
大正8年(1919)3月【23歳】 | 花巻に帰省し、家業に従事 |
大正8年(1919) | 稗貫郡土性調査報告書執筆中か |
大正9年(1920)5月【24歳】 | 盛岡高等農林地質学部研究科を終業 |
大正9年(1920)7月26日 | 関博士退職 |
大正9年(1920)8月26日 | 大迫で関博士らの「土性調査慰労宴」を開催か 詩[夜をま青き藺むしろに]で詠まれている宴か |
大正9年(1920)9月4日 | 大迫付近のたばこ畑を関博士と歩いたことを保阪嘉内宛に書く |
大正10年(1921)9月【25歳】 | 「月夜のでんしんばしら」「鹿踊りのはじまり」「どんぐりと山猫」を書く |
大正10年(1921)11月 | 「狼森と笊森、盗森」「注文の多い料理店」を書く |
大正10年(1921)12月 | 童話「雪渡り」を発表 |
大正10年(1921)12月3日 | 稗貫農学校教諭になる |
大正11年(1922)【26歳】 | 「春と修羅」収録詩篇の制作を始める |
大正11年(1922)9月15日 | 『岩手県稗貫郡地質及土性調査報告書』発行 |
大正11年(1922)11月27日 | 妹トシ死去 「永訣の朝」を始めとする「無声慟哭」詩群誕生につながっていく |
大正12年(1923)2月19日【27歳】 | 大迫小学校で関博士の「土性調査報告会」を開催。 賢治も同行する夜、花月亭で宴会 |
大正12年(1923)2月20日 | 菅原隆太郎(大迫小学校長)の日記には「関博士に同行された宮沢さんが見えた。私の慕っている方だ。是非授業を参観したいといわれた」と記されている |
大正12年(1923)4月 | 稗貫農学校が県立花巻農学校になる |
大正13年(1924)2月【28歳】 | 生徒に「風野又三郎」の原稿筆写を依頼 |
大正13年(1924)4月20日 | 心象スケッチ『春と修羅』刊行 |
大正13年(1924)5月4日 | 詩「山火」を創作 |
大正13年(1924)8月17日 | 詩「早池峰山巓」、詩「北いっぱいの星ぞらに」を創作 |
大正13年(1924)12月1日 | イーハトヴ童話集『注文の多い料理店』刊行 |
大正13年(1924)12月 | 「銀河鉄道の夜」初稿成立 |
大正14年(1925)8月10日〜11日【29歳】 | 早池峰山登山に出発 詩「渓にて」 詩「河原坊(山脚の黎明)」 詩「山の晨明に関する童話風の構想」などを創作 |
大正15年/昭和元年(1926)3月1日【30歳】 | 童話「猫の事務所」発表 |
大正15年(1926)3月 | 花巻農学校を依願退職 |
大正15年(1926)4月 | 花巻町下根子桜で独り暮らしを始める |
大正15年(1926)7月1日 | 稗貫郡役所閉所 |
大正15年(1926)8月 | 羅須地人協会を設立か |
昭和3年(1928)8月【32歳】 | 発熱病臥。両側肺浸潤と診断される |
昭和3年(1928)12月 | 急性肺炎 |
昭和5年(1930)4月【34歳】 | 東北砕石工場主・鈴木東蔵来訪 |
昭和5年(1930)春 | 体調が回復し、園芸を始める |
昭和6年(1931)1月【35歳】 | 「東北砕石工場の技師を命ず」の辞令が送付される |
昭和6年(1931)7月 | 「児童文学」に「北守将軍と三人兄弟の医者」を発表 |
昭和6年(1931)8月頃 | 「風の又三郎」の執筆進む |
昭和6年(1931)11月3日 | 手帳に「雨ニモマケズ」を書き留める |
昭和7年(1932)3月【36歳】 | 「児童文学」に「グスコーブドリの伝記」を発表 |
昭和8年(1933)9月20日【37歳】 | 病状悪化 |
昭和8年(1933)9月21日 | 父に『國譯妙法蓮華経』を千部印刷して知己友人にわけて下さいと遺言。37才で死去。 |
昭和9年(1934)6月 | 『國譯妙法蓮華経』が配られる |
昭和9年(1934)10月 | 『宮澤賢治全集』(文圃堂)刊行が始まる |
昭和11年(1936)11月23日 | 花巻市下根子桜の羅須地人協会跡地に全国初の賢治詩碑が建立される |
盛岡高等農林学校在学中の賢治さん
再現された土性調査慰労宴の様子
撮影協力 「早池峰と賢治」の展示館
花巻農学校の教諭時代の賢治さん
うっすらと雪をまとった早池峰山の頂
「風の又三郎」の初期型とされる「風野又三郎」の複製原稿(拡大する)
資料提供 宮沢賢治記念館
賢治さんの遺言で菅原隆太郎先生に贈られた「國訳妙法蓮華経」
資料提供 「賢治と早池峰」の展示館
銀河の森、早池峰山を愛した賢治さん